NPO法人かわさき技術士センター主催 施設見学会参加レポート
秘められた戦争の裏側を見る〜明治大学平和教育登戸研究所資料館

中小企業診断士・薬剤師 岩水 宏至

かわさき技術士センター(以下、技術士センター)は、財団法人川崎市産業振興財団中小企業サポートセンターに専門家として登録している技術士が集まり、2012年5月に設立されたNPO法人です。私ども川崎中小企業診断士会(川崎診断士会)とは、市内の中小企業の成長・発展や地域経済の活性化に貢献するという点で目的を同じくしており、それぞれが専門性を活かした中小企業支援を行っています。

かわさき技術士センターについて;
https://www.kawasaki-shindanshi.jp/2023/01/angle-160/
https://www.n-kgc.or.jp/home/

今般、技術士センターが主催する施設見学会が開催され、川崎診断士会より入谷理事長はじめ7名が参加しました。技術士センターでは定期的に工場や研究施設などの見学を行い、技術・経営等に関する情報収集と研鑽に努めておられます。これまでの施設見学会では工場や研究施設への訪問が多かったのですが、今般の見学先は、大戦において「秘密戦」といわれる戦争の闇の部分の記録が残されている明治大学平和教育登戸研究所資料館、いわゆる旧陸軍登戸研究所を見学しました。
日本は80年近くにわたって平和が守られてきましたが、世界においてはロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエル・パレスチナ情勢など戦乱は絶えません。この機会に、旧日本陸軍による秘められた戦争の裏側を知り、改めて戦争の愚かさを再確認するとともに平和とは何かを考える機会となりました。

明治大学平和教育 登戸研究所資料館について

登戸研究所は、正式名称を「第九陸軍技術研究所」と言われ、第二次世界大戦末期、10ヶ所あった陸軍研究所の一つでしたが、その目的は陸軍が秘密戦のための兵器・資材を研究・開発するためのもので、戦時中はもとより、戦後も長らく一般にその存在は秘密にされてきました。秘密戦とは、防諜(スパイ防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・撹乱活動・暗殺)・宣伝(人の心の誘導)の4つの要素から成り立っており、主として秘密のうちに水面下で行われます。戦争には必ず付随するものと言われていますが、戦果が公表されることは稀で、戦後になっても公式の記録は残されません。

登戸研究所では、太平洋戦争末期にアメリカ本土を直接攻撃する大陸間横断兵器として開発された風船爆弾、秘密インキや毒薬注入機などのスパイ機材、暗殺用毒物兵器、生物兵器などの開発や、高度な印刷技術を駆使した偽札や偽造パスポートの製造が行われていました。いずれも、高い技術がふんだんに活用されており、当時の最先端の研究であったことが伺えます。
風船爆弾などは、約80年前とはいえ爆撃機や戦闘機が空を舞っていた時代に風まかせかと思ってしまいそうなものです。しかし、リモートコントロール技術がなかった時代に、充填した水素ガスと砂袋を気圧や気温によって自動的にコントロールし、世界的にはまだ詳細が解明されていなかった偏西風を利用して、およそ2昼夜半かけてアメリカ大陸に着弾する仕組みは、当時の技術の粋を集めたものでした。この風船爆弾は約9000個が放たれ、約1割がアメリカ本土に着弾したといわれています。アメリカ国内でも風船爆弾の飛来について一時は報道管制が敷かれた事実からも、日本からの意表をついた攻撃に、少なからず混乱を生じさせられたことが伺えます。また、偽札についても、当時イギリスとアメリカの技術による紙幣と同水準の偽札を製造することに成功しています。

現在、登戸研究所があった場所は、明治大学生田キャンパスとなっており、当時の面影はあまり残されていません。数少ない史跡の一つに、キャンパス裏手に残る動物慰霊碑があります。高さは約3メートルと当時としてはかなり立派なもので、背面には昭和18年3月陸軍登戸研究所建之と刻まれています。その存在について正式な記録もなく、戦後は闇に葬られながらも、ここに登戸研究所が確かに存在していたことを示すものです。

戦後、登戸研究所の元所員たちにおいては戦犯指名を受ける者はなく、一部はアメリカ軍への技術協力をおこなったと言われています。日本国内で闇に葬られた技術が、国家間の思惑により戦後も引き継がれたことは残念ですが、一方で登戸研究所の技術の高さを示す根拠とも言えます。
登戸研究所で開発された兵器や資材には、人道上・国際法規上問題のあるものばかりです。しかし世界において戦争という暴挙がいまだに消滅しない中で、あえて戦争の暗部ともいえる部分を直視することは、戦争の本質や日本軍の過ちを冷静に見つめ、これからの平和を考えていく上で重要なものだと感じました。
戦後40年以上が経って、元所員らによって建立された登戸研究所跡碑には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。かつて登戸研究所に勤めていた人たちは、誰にも話せなかった研究所での記憶を、戦後数十年が経過して再び話すことが許されたという気持ちが詠われているそうです。

自由に語れることが許された平和な現在においても、高い技術力にもとづく「ものづくり」は日本の強みと言われており、その多くを中小企業が担っています。あたりまえではありますが、高い技術力は平和的に活かされて初めて価値のあるものとなります。今回の施設見学を通じて、この“あたりまえ”に改めて気づく機会を与えてくださった技術士センターの皆様に感謝を申し上げます。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
https://www.meiji.ac.jp/noborito/

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